ベティーさんの恩返し

 暑い8月の大阪は万博で賑わっていた。 岡本太郎の太陽の塔、アポロ11号が持ち帰った月の石、コードレス電話、人類の進歩と調和をテーマに77カ国が参加、総入場者数6400万人、東京オリンピック(1964年)以来の日本のビッツイベントだった。

これを書くにあたり当時を振り返っていると何を着ていたかまで思い出した。茶色のスリップポンに白いニーソックス、グリーンのバーミューダーパンツに横縞の白いTシャツに白の帽子とお洒落をした僕は”月の石”見たさに一人で『日本万国博覧会』にやってきた。

どこのパビリオンも長蛇の列。待つこと一時間とかはザラであった。 その日はソ連館に並んでいたが生憎の夕立が降り始めた。 まだまだ入り口までは時間がかかる。今思うと日本では常識となっている折りたたみ傘、これをショルダーバッグから取り出し拡げた。その時真後ろにいるアメリカ人家族が目に入ると同時に傘をご婦人に譲った。 『僕は帽子があるからお使いください』と言いながら傘を差し出すとびっくりした様子で感謝の言葉とともに受け取り会話が始まった。これがベティーさんとの最初の出会いである。 この出会いは人生を大きく変えた!


彼ら家族はカリフォルニア州のパロアルトから来た、子供は5人いるが今回は下の子二人ジムとシンディーを連れてアジアを回っていると言う、ジムは僕とほぼ同じ年齢。 ドルが強い時代と言ってもお母さんのベティー、お父さんのシド、家族4人でアジア旅行とは素晴らしいじゃないですか! 

雨もすぐに止み40分ほど色々と話た後入館前に住所を交換した。 後から知ることになるがこのパロアルトと言う街はサンフラン空港から20分ほどフリーウェイ101号線を南下したしたところにあり、スタンフォード大学がありステーブジョブスが住んでいた高級住宅地である。

その年から毎年クリスマスカードが12月の初旬に届くようになり、毎回 Come and see us!と書かれてある。それから4年後に彼らを訪れた。 マグノリアの街路樹が香るSeale Ave.の 大きな屋敷にはフルサイズのプールにゲストハウスがある、ハスキー犬が二匹、猫も数匹いた。フォードのウディーステーションワゴンに家族みな乗り込んでサッカーの試合とか買い物などなど色々なところに連れて行ってもらった。見るもの聞くもの、マグノリアの匂いまでがカルチャーショックだった。シドはこの街で開業している獣医だった。しばくお世話になった後パロアルトを後にグレイハウンドバスで全米を1ヶ月旅をし日本に戻った。出迎えに来てくれた両親へはどうだったかという質問を想定して答えを用意した。『人生を支える何か大きな物を得たような気がします。旅費の援助に感謝します。』このセリフが次の留学への大きなステイクになったのは間違えない。そしてアメリカの刺激に足の先から脳天まで麻痺したまま数年後にはカリフォルニアに住み始めた。 40年経った今でも痺れは止まらない。

ベティーさんの恩返しは僕の人生を変えた。 小さな親切が大きな未来へと繋がった。 

追記:Seale 通りの元の豪邸は数年前に売却されモダンな住宅に生まれ変わった、ちょっと寂しいが街はそうやって変わっていくのだろうベティーもシドももういない。        

Califusa Sunset

浅学(せんがく)にして菲才(ひさい)右脳、五感型 人間。 そういう人間が文章を書くとすれば自分が実見して知っていることを書くことしかない。 好きな場所に住めること  そこには心を豊かにさせる何かがある そんなカリフォルニア ライフを記録として綴ってみた。

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